その昔よく聞いていた音楽に出くわすと、その時のあらゆることが思い出されます。まるで超伝導のように余計な抵抗を受けず、瞬時にシナプス伝達されるといいますか。その時の出来事だけではなく、考えていたことも、感じたことも。いいことだけじゃなく、嫌なことも哀しいこともまた。記憶スイッチが入って、体全体で再体験してしまうかのような。

アナログレコードしかなかった頃、LPを立ち上げるには、ご存知のようにそれなりのすこぶる面倒な手順がございました。ですから、これ1曲だけ聴きたいってという要求にはからっきし不向きでした。勉強なり仕事なり何かをしながら聴きたい時は、得てしてL P片面全曲、両面全曲となりがちです。当然ですが、再び針を戻し繰り返すこともしばしば。購入したばかりのアルバムは例外として、自然と針を落とすアルバムは絞られておりました。その時その時で、お気に入りのいわゆる旬のアルバムというのがあり、繰り返され、耳に脳に焼き付いていくことになります。

学生時代の音楽体験なんて、それはそれは貧弱なものでした。小遣いやバイト代を貯めて買える装置なんてたかが知れています。高校生になって2年ほどかけて金を貯めようやく手に入れた、ソニーのステレオセットは「Liberty」というシンプルな入門編。それが限界でした。

再生装置に凝ったり投資することよりは、欲しいレコードが無数にあったので、アルバムの購入を最優先としたかったのです。そのせいかも知れませんが、音の質へのこだわりというものが培われませんでした。当然のこと、耳を肥やそうなんてことは夢のまた夢。
新宿区下落合の目白通り沿いにあった目白堂というレコード店に、どうしても手に入れたい新譜が発売になると、なけなしの小遣いを握りしめてよく通いました。

音楽情報を入手するのはかなり限られていた当時、レコード店で得られる情報は貴重でした。お店の方の話、新譜コーナー、店内のポスター、チラシ、レコード会社がまとめた冊子。目白堂での滞在時間はどれほどだったでしょう。オーナー夫妻にあれこれとよくしていただいた記憶もあり、かなり長い時間を過ごしたと思われます。落ち着いた木造のつくり、美しくワックスで磨かれた高級建材の床、直射日光を遮る北側の大きなガラス面、それを補う柔らかい照明、そしてオーナーこだわりのシンフォニーが空間を包み込む。10代の子供にとって、五感すべてに非日常、異次元の刺激をもたらしてくれました。

ここには、鑑賞室というシャワー室くらいのブースが確か二つありました。そのうちの一つはガラスで仕切られた電話ボックスのようなつくりになっていました。音漏れが最小限に抑えられた密室空間です。
オーナーから伺ったところによると、トキワ荘時代の石ノ森章太郎さんがその密室鑑賞室に足繁く通ってきたそうです。お気に入りは発売されたばかりのクラシック音楽。アルバム1枚をじっくり聴き込みながら、無限にひろがる創造力の宇宙にとびだし、壮大な構想を練り込んでいたのでしょう。仮面ライダー、幻魔大戦、サイボーグ009、、、。

高校生になって、クラシック音楽にも手を出したものの、何をどう選ぶべきなのか皆目不明。同じ曲を多くの指揮者、多くのオーケストラで演じられており、仕舞いには同じ指揮者による同じオーケストラによる別バージョンまで。
ある日曜日の午前、目白堂のオーナーに相談していました。チャイコフスキーの第6番と、ワーグナーのいいとこ取りを集めた構成盤の2枚。ロックにも通じるエモい曲。曲の強弱と創造力の高さからサー・ゲオルク・ショルティを勧めてくれました。何よりも定価設定がよかった。今でこそ無数の中から選べますが、当時はレコード販売会社も売れるものを厳選していて、それほど選択の幅はありませんでした。それでも3〜5枚はあり、高校生に選ぶのは無理。ましてや、なけなしの数千円を握りしめていたわけで、決してまちがえたくはありませんでした。

その日の午後は、飲食もトイレも忘れ、ひたすらレコード盤をかけ続け、ただただ浸っていました。今もレコード棚にその二枚はあります。その後、10代後半から20代に、ドイツ3大B(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)やホルスト、ムソルグスキー、マーラーなどがコレクションに加わっていきました。
さて、音楽好きだけどお金のない貧乏学生の味方は、中古レコード店。学校帰りによく立ち寄ったのが、高田馬場のタイム。ここのオヤジがまた60年代から抜け出してきたような風貌とファッション。でも、英米ロックの知識は、ピーター・バラカンさんや渋谷陽一さん(2025年7月22日逝去。ご冥福をお祈りします)を凌いでいたかもしれません。私と好みも似通っていたのかなぁ? それとも、合わせてくれていたのかなぁ?

オヤジさんに気になったアルバムのことをお尋ねすると、狭い店内のステレオ装置にセットしてくれて、あれこれと講釈いただきました。大抵、ここまでしてくれたので、買わないわけにはいきませんでしたが。
タイムでの貧弱な鑑賞体験のせいもあってか、レコードで聴く音質の良し悪しをそれほど端的に感じることはなく、高級音響装置に溺れていくマニアな友人を横目にひたすら安物の装置で耐えておりました。今となっては、それが良かったのかいけなかったのか。

ちなみに高田馬場のタイムは惜しまれながら、2016年1月に閉店しました。
80年代に登場したコンパクト・ディスク。

これまでの貧弱音楽鑑賞体験のせいもあって、コンパクト・ディスクはまさに画期的な出来事であり、衝撃でした。鑑賞方法もステレオ装置を介してではなく、CDプレーヤーに直接イヤホンやヘッドホンを接続することで、これまで聞こえていなかった音までも拾えるようになりました。


人の耳が感じ難い帯域をカットしているせいで、音場の広がりを感じられないとかいいます。ですが、そんなにデリケートな耳をしていません、そもそも。
CDであらためて聴き直してみると、当時わからなかった音に気づかされます。何よりも音楽再生に手間がかからない、これはほかの何にも増して素晴らしいことです。因みにコンパクト・ディスクの特許の約半分は日本のソニーにあるというのも誇らしいですね。
過去の大きな出来事の記憶と濃密に結びついた音楽アルバムが幾つもあります。中でも高校から大学へと環境と日常が変化した十代最後の2年間の記憶は鮮明です。

今ふたたび嵌っているアルバムは、ジェフ・ベック(Jeff Beck)の「ブロウ・バイ・ブロウ (Blow by Blow)」。発売当初の邦題は「ギター殺人者の凱旋」(なんだこのタイトル?!)。アルバムAB面すべての曲がいい。ヴォーカルが(ほぼ)なく、シンプルな楽器編成でありながら緩急と強弱が絶妙。物語性にあふれ、ジャジーなところが今聞いても泣けます。論文問題に挑んでいるときなんかによく掛けていましたね。初期のボストンやデビューしたてのTOTOも、よく何かをしながら聴いてました。アルバム最初の曲のイントロが鳴った瞬間、もうヤバい!


近いうちに、当時の鮮明な記憶を引っ張り出してくれるいくつかのアルバムを紹介を兼ねてまとめてみようと思っています。
